第94話   土屋鴎涯の継竿批判   平成16年04月15日  

この節の釣士は乗り物に乗って釣に行くので長竿を嫌って一本の竹を二切,三切の継竿にしてしまう。惜しいことだ。見せ掛けの竿で大物を釣る心無い奴は結局糊細工の竿でも十分だろう。専売特許(大八木式真鍮パイプ継の事)とか云っている継竿を見ると尺以上の魚は実に危険だ。尺五寸以上の魚をかければ皆へし折れるに決まっている。自分の倅は東京で袋入りの二間半の竿を買ってきたが、三瀬(現在の鶴岡市三瀬)で黒鯛をかけたとたん差していた方が潰れて魚が外れてしまった。三ヶ所の継ぎ手が皆壊れていたので、その後は継竿を使っていない。」と土屋鴎涯「庄内の釣 時の運」の第四図にこう書き記している。

幕末に藩士の子として生まれた土屋鴎涯は、根っからの延べ竿派だった。その為か、継竿に対しては非常に批判的で悪口雑言を述べている。また、我が物顔で狭い道路を行く自転車や自動車で釣に行く者への批判なども随所に見られる。土屋鴎涯の若かりし頃の釣は十数キロの道程を徒歩で行くのが、当たり前であった。年寄りの古き良き物への郷愁(?)が感じられて実に面白い。

近代化の波が、東北の片田舎にも押し寄せて来たと云う実感が持てなかったのであろうか、それとも時代についていけなかったお年寄りの一人であったのでろうか?いや土屋鴎涯は長く地方の裁判所に勤め、その定年後から死の数年前迄複数の会社に乞われ奉職した学識ある文化人の一人であった。単に古き良き物への郷愁だとも思えない。子供の頃からの釣で使い慣れた延べ竿に愛着を感じていたからかも知れないのである。

昭和40年代の中頃にも3間半(約5.4m)というの長い延べ竿を乗用車にくくり付け、片道3時間余りの男鹿半島へ釣に出かけたという強兵(つわもの)の釣師が居た。確かに、純粋の延べ竿は、釣味がダイレクトに伝ってくるから使って見ると継竿とは比較にならない程に、一味違うと云う事が云える。

しかしながら大方の釣師が使って多少の欠点があったにしても、より携帯に便利で実用に耐えうる竿であったればこそ、継竿は確実に普及したのである。使って悪かったら継竿は絶対に普及しなかったであろうと考えられる。その点、土屋鴎涯はある意味で田舎者の頑固爺(?)であったのかも知れない。文明の浸透と共に鉄道、バスの普及で土屋鴎涯が生存中に継竿派が多数派になっていったが、それでも尚庄内竿の定義だけは竿師からは延べ竿のみと云う事が守られて来た。そんな訳で庄内竿と呼べるのは延竿だけで、継竿、中通し竿は庄内竿とは云わなかった時代が長く続いていた。

それが中通し竿が出てきて、中通し竿が大いに普及するようになると、今度は継竿も延べ竿の範疇に入れて中通し竿のみ延べ竿とは呼ばないとされるようになった。それは竿師、釣師達の世代交代と共に時代にマッチしたものと認められて来たからである。しかし、竹を二〜三つに切るだけではなく、竿に穴をくり貫く中通竿は、現在でも延べ竿とは別個の物であるとされ未だ認められてはいない。

そして、現在小竿を除き純粋の延べ竿を使用する釣師は極々少数派となってしまった。